はじめに

1971年8月21日、午後9時30分、松村謙三は、88歳の生涯を閉じた。川崎秀二、田川誠一、古井喜実ら、晩年の日中関係改善の試みに松村とともに尽力した政治家も、危篤の連絡をうけ、国立第一病院北病棟3階366号室にあった病床に詰め掛けた。長男正直氏の日記は、「8月21日、夜9時30分父終焉。満88歳8か月の生涯。朝来父危篤が伝えられ、数多くの方々が病床で最後のお別れをされる。昨日までとは違い最後まで物静かな息遣い、眠るように息を引き取る」と永訣の時を記した。

8月25日、11時には宮中から勅使御差遣があった。つづいて内閣から追陞追贈の御沙汰があり、7時から築地本願寺で通夜が催された。「清楚な飾り付けの会場に千を超える方々が集まって下さる」と正直氏の日記は記す。その後、川崎の司会で「松村先生を偲ぶ会」が開かれ、三木武夫、三宅正一、竹入義勝、岡崎嘉平太、永田雅一、永井道雄その他が交々故人の想い出を語った。

翌8月26日朝には王国権氏一行の弔問をうけた。王は慇懃に周恩来総理以下の弔意を伝えた。1時から葬儀が行われると、会葬者は千数百に及んだ。有名な「佐藤総理と王氏との握手」はこの時のことである。2時から3時までは一般告別式。「いつまでも続く人波。王先生も中途まで侍立して下さる」と正直氏は記す。4時から初七日法要。日記は「『すべて滞りなく』という言葉がそのまま当てはまる一日である。事務処理その他に立働いていただいた党や早稲田大学の事務局等の方々のおかげである」と結ばれている(『花好月園』より)。

9月4日には、郷里の福光において再度の告別式が行われた。『北日本新聞』は、遺骨の無言の帰郷を次のように伝えている。

故松村謙三氏の遺骨は3日郷土の富山県へ帰り、高岡、福光などで多くの人たちが松村氏の無言の郷土入りを出迎えた。遺骨は午後2時、高岡駅着特急「はくたか」で長男正直氏(三菱倉庫社長)の胸にしっかりと抱かれ、プラットフォームに降り立った。20数年来松村氏の身の回りの世話を一手に引き受けてきた二女の小堀治子さんの顔も見える。

高岡駅まで出迎えた定村福光町長、田矢部町議会議長らのほか福光、福野、砺波、小矢部、高岡などの各市町から「松村さんが郷土へ帰ってきた」と、約100人がプラットフォームを埋め、語らぬ松村氏を迎えた。駅前ではさらに出迎えの人たちが増えて約150人。いずれも松村氏をして昭和3年の第一回普通選挙以来、44年12月に国会を去るまで、当選13回の栄誉を与えたいわば松村党の面々ばかり。中には年老いてつえにすがりながら出迎えた人々や三時間も前から駅にきて待っていた人もあった。(中略)

松村氏を生んだ福光町は、各戸とも弔旗を掲げて郷土の大政治家を迎えた。生家には午後2時50分に着いた。長男の正直氏は玄関から長身の体を折り曲げ、遺骨を抱きかかえるようにはいり「お父さん郷里へ帰りました。町内の皆さんお出迎えありがとうございました」と涙であいさつ。あとは言葉にならなかった。

高潔な政治家にふさわしく、松村家の生家は弔意を告げて張り巡らされた黒白の幕だけだが、ひときわひきたっていた。

北日本新聞、1971年9月4日付

反主流となることを恐れぬ硬骨の議会人として、多くの友人を持った松村。政敵とも友情をはぐくんだ松村。中国と日本の関係改善に尽力し、静かではあるが、政界に大木のような存在感を放った松村。郷土を愛し、郷土に愛された松村。政治家・松村謙三への愛情にあふれたこれらの日記や記事は、早稲田大学を卒業してからその死までの政治家・松村謙三の歩みがどのようなものであり、どのような人々に支えられたのかを浮かび上がらせる。

 その死から、来年(2021年)で50年を迎える。公職追放中に自ら筆を執った『町田忠治翁伝』や、戦後に語り下ろした『三代回顧録』(2021年に向けて吉田書店より復刊予定)を読み解き、櫻田会、松村謙三記念館(富山県南砺市福光)で整理中の松村家に残された膨大な資料を用いながら、その足跡に迫りたい。(武田 知己)